【考察】なぜ広告業の私が「漫画」ではなく「アニメ」にハマりだしたのかを考えた


聞いた話だが「アニメ好き」のデザイナーは多いらしい。

当時、同業の友人から聞かされた時は「ガチのアニメ好き=異世界の人」という風にしか捉えていなかった。

己のオタクのポテンシャルを振り返る

とはいえ、おそらく私は「オタク」である。ポテンシャルはあると思う。紙一重のところを行ったり来たりして、バランスを取っていると思う。

過去の話を書き出したらキリがないので割愛するが、もし私の青春時代にインターネット全盛期だったならば、きっとドップリとオタクの底なし沼にハマっていたに違いない。

昔は漫画家になりたかった。才能は無かった。努力もしなかった。

コミケというものに行ってみたかった。当時は今よりももっと(ある意味)ハードルが高かった。今ほど市民権を得ていなかったように思う。

中学生のある日、地元で唯一の画材屋へ行った。もちろんスクリーントーンだのコピックだのを買うためだ。

少ない小遣いで、「漫画道具」や「画集」を購入するのが当時の楽しみだった。

画材屋の隣にニッチな本屋があった。

普通の本屋には売っていないような本や漫画がたくさんあった。

ある時、『ハンター×ハンター』と『封神演義』の単行本だと思い込み購入した、“デカめ”の漫画本、その中身が100%「エロ」で埋め尽くされていたことに衝撃を受けた。

ここで同時に『BL』というカテゴリを知ることにもなる。

今では笑い話だが、当時は顔から火が吹き出るほど恥ずかしかった

エロ本を隠し持つ、「思春期の男の子の気持ち」に触れた瞬間だった。

それらを捨てるに捨てれないまま、私は大学進学のため実家を出た。

あの数冊の同人誌は、いまだに実家の本棚の後ろの方で身を潜めているのだろうか。

いや、すでに母の手によって暴かれているだろう。

「割愛する」と言ったわりには、結構ペラペラ喋っとるやないか。

漫画熱再燃、きっかけはアイルランド

まあつまり、私は「漫画がとても好きだった」のだ。

「アニメ」もたまには観ていたが、圧倒的に「漫画」だったのだ。

22歳で就職してからは、それまで持っていた漫画を全て売り払った

それから数年、一切漫画とは関わらない生活を送った。アニメなんてもっての他である。

とにかく忙しい20代を過ごしたと思う。

転機は、2015年のアイルランド滞在時である。

私は8ヶ月間だけ、アイルランドのダブリンで生活していた。

あっちにいてもオンライン経由で日本の仕事を受けていたので、基本的に家に引きこもりがちだった。

kindleを持って行っていたので、ふと何気なく無料漫画を読んでみた。

ここでタガが外れてしまった。

結局、2ヶ月ほどで10万以上ものお金を漫画に費やし、私は一時、ダブリンの星屑となった

数年分の漫画欲が一気に爆発してしまったのだろう。仕方ない。後悔など無い。

漫画なんてものは、きっとほとんどの人が好きだと言うだろうが、私もただそういうことだった、というだけだ。

ひとつだけ付け加えるとすれば、「買うことを我慢できなかった」ということだろう。これが「オタク」が「オタク」である所以なのかもしれない。

 「アニメ」に走った理由は「広告業」という業種のせいかもしれない

さて、話は私の仕事に移る。

私の仕事は、ざっくり言うと「広告業」である。ライティングやプランニングなどの仕事で細々生活させていただいている。

25歳で印刷会社からweb制作会社に転職した。

気づけば今や、フリーランスでの社会人生活が一番長くなってしまっている。そんな今もweb広告系で飯を食わせてもらっている。

そんなことはどうでもいい。

web系は特に「餅は餅屋に」といった仕事の概念が大きい気がする。

つまり、静的な部分と動的な部分、二次元と三次元的な構造が入り混じっている業界なので、「私にもできそう・できるかな?」程度で別のエリアの仕事に首を突っ込むと、とんでもない問題になりかねないからだ。

「二足のわらじ」的な感覚は、あまり無いだろう。

だから基本的に、個々の担当エリアは明確に分けている、という印象だ。

(※細かいことを言い出すと例外がボロボロ出てくるので、ここではそういうことにしておいてください)

で、良い成果物というのは、誰か一人でも欠けたらその出来にはなり得なかったもの、つまり「集合体の集大成」なのだ。

一方、漫画家に憧れていた当時は、漫画家に対して、いわゆる「職人」というイメージを強く持っていた。

一人孤高に原稿へ向かう姿というか、浦沢直樹的に言うと「白い原稿用紙に大作映画描いているようなものだ。それができるのが漫画である」とまあ、そんな感じだ。

だから、それも含めてカッコイイと思っていた。もちろん今も憧れているし思っている。

こんなに漫画が好きだったのに、なぜ今私は「アニメ」なのだろう

理由を考えた。そこでさっきの「私の職種」が少し絡んでいるのかもしれないという、仮説が浮上した

アニメができるまでは、監督、脚本、作画、声優、音楽、その他もろもろ…。

とにかくたくさんの人が関わらなくては完成しない

そう、誰か一人でも欠けてはならないのだ。

私の仕事も言及したとおり、たくさんの人たちが上下左右入り乱れてアウトプットし続ける。

「似て非なるもの」だが、似ていないことも無い。

そこで私は「仕事目線」でアニメを観ていることに気づいたのだ。

つまり、「なぜこんな脚本にしたのか」「なぜこのタイミングでこれなのか」「ターゲットは誰か」「なぜOP/EDはこれなのか」「なぜこの声優陣をキャスティングしたのか」などなど。挙げる出すとキリがない。

どういう順序で完成系に持っていくのか。OKが出たあとで問題が起きた場合、再度撮り直すのか。声優のスケジューリングはどうしているのか。

「似て非なる」業界だからこそ、自分に当てはめていろんな想像をする。

1話2、30分という短い時間の中でどこに盛り上がりを見せるか。どこで視聴者の心を持っていくか。そこに動的な動きと音が、同時に入ってくる。

私にとって「視聴者目線」と「仕事目線」の2つの「おいしい」を味わえるのが『アニメ』なのだ、なのかもしれない、という結論に至った。

“人が多く関わる娯楽”といえば、開口一番「映画」と言う人が多いと思う。私もそう思う。でも私にすれば、映画は一本観るのには時間も体力も使う

仕事の片手間で見れるような代物ではないのだ。

その点、アニメはちょうど良い

さらに生身の人間が演技しているわけでもないので、そういう威圧感」のようなものも無い。

私だって、映画も好きだし漫画も活字も好きだし、これらもたくさんの人が関わって世に出ていることだってもちろん知っている。

だが今回は、ただの仮説を書き殴っているに過ぎない。

しかし、五感を刺激されながら観る2、30分単位の“仕事”を、視聴者として共有されている感覚は、この上なく気持ちが良いものだ。

そう、ちょうど良いのかもしれない。

「オタク」を連発したこの記事だが、ポテンシャルはものすごくある一方で、自分を「オタク」と呼ぶのには少々ためらう。

私はオタクを「恥ずかしい」とは思わない。むしろ、どちらかというと「ガチオタ」のみなさんに対して、私程度の人間が「オタク」を公言するのが失礼じゃないのか。そういう意味でためらわれるのだ。

さて、この答えはいつ見つかるのやら…。

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