【独白】もはや吉沢亮に惚れた腫れたという話ではない


突然だが先月、同郷の友人と軽い口論になった。

原因は『吉沢亮』である。

自称「先見の明」がある友人曰く、彼女が目をつけた歌手や俳優は、その後必ずブレイクする(らしい)のだ。

そんな彼女に吉沢亮の写真集を見せたところ、途端に瞳孔を開かせ、ゆっくり私の顔を見上げ、そしてまた写真集に目を落とし、また私の顔に視線を戻して一言。

「この子……、売れるよ…」と。

「あ、うん。ていうかね、もうすでに売れてる。 売・れ・て・る・か・ら!」

そう言っても彼女は全く聞く耳を持たない。

「えっ、だって私今まで知らなかったもん」と涼しい顔で反論するのだ。

彼女の中で【私が目をつけた芸能人は必ず成功する】という公式があるため、私がどれだけ“すでに売れてますアピール”をしたところで、彼女が知らない芸能人は「まだブレイクしてない」ということになるらしいのだ。

彼女との付き合いももう30年ほどになるので(なぜなら幼馴染だからである)、これまで幾度となく彼女のそういう話を聞いてきたが、私に被害が及ぶ話でもなかったため毎回その『ブレイク神話』を半分白目で聞き流してきた。

が、しかし、今回ばかりは対岸の火事として傍観するわけにはゆくまい。

なぜなら吉沢亮が絡んでしまっている。

「だーーかーーらぁぁぁ! 売・れ・て・ん・ね・ん! すーーーでーーーにいいいぃぃぃぃぃぃ!!

そんなに見る目あんなら伝説のスカウトマンにでもなっとけやコラァァァァァアアア!!!」

もはや笑い話である。

というか、私からすると、今まさに吉沢亮という存在を知った彼女の口から、相も変わらずそのような戯言を言っちゃうあたりが腹立たしかったりもする。

「腹立たしい」とは言っているものの、「この子は昔から変わらんなあ」という、まあどこか懐かしさを感じる程度のかわいらしい苛立ちであることを追記しておく。

まあ、それはそうと、どこぞのアラサー女二人を口論へと焚き付けてしまうのだから、末恐ろしい男、吉沢である。

無論、彼からすると「誰はお前たちは」レベルの下世話な話であることには変わりない。

吉沢亮に「ブレイク」という言葉は似合わない

さて、周知の事実だが2018年の今年は、彼の出演映画の本数がエゲツないことになっている。我々ファンは、ほぼ毎月「違う顔の吉沢亮」を堪能できるという計算になるわけだ。

そういう意味では、友人の言っていた「今年ブレイクするよ」はあながちズレてはいない。

しかし彼に関しては「売れる・売れない」「ブレイクする・ブレイクしない」そういう言葉を充てがうことに妙な違和感を感じたりもする。

彼からは、そこはかとなく人生を70年ほど終えた人間の纏う空気。そんな雰囲気を感じる時があるからだ。

良い意味で若者っぽさを感じない、という言い方が良いだろうか。

二階堂ふみも似たようなことを言っていた気がする。

多分、おそらく、そのような多面的なギャップ? みたいなものが、彼の魅力のひとつかもしれない。

ということで、30年間も身につけてきたこの『ブレイク神話スルースキル』を、いとも簡単に打ち破らせた罪な男、吉沢亮について書いていきたい。

まず最初に私と吉沢亮との出会いから話そう。

念のため追記しておくが、私が“一方的に”出会っただけの話である。

まず、私はいわゆる“若手俳優”とか、“新人ミュージシャン”など、そういった界隈の話には疎いほうだ。

同じ作品を飽きもせずに繰り返し堪能するタイプなので、新しい情報を仕入れるタイミングが、世の中の時空からやや遅れを取ってしまうことがよくある。

だから他の俳優と比べるようなこともできないし、する必要もない。

ただ吉沢亮という、一人の俳優について書く。

とまあ、そんなこんなんで話は遡る。

出会いは「良い演技をする」若い子

ガンガンONLINEで連載された山内泰延のギャグ漫画『男子高校生の日常』の実写映画を観たことが、全ての始まりだった。

男子校に通う冴えない男子たちの学園生活が、リアルかつユーモアたっぷりに描かれ、2012年にはテレビアニメ化もされた同作品を、もともと栗原類目当てで鑑賞した。

しかし同時に、吉沢亮演じるヒデノリの、ストンと入ってくる自然な演技に「あら、この子の演技良いわねえ」と思い、それから何度か繰り返し観た。

ヒデノリというキャラは前髪が長く、さらにメガネをかけていたので、吉沢亮としてではなく、あくまで「アイコンとしてのヒデノリ」と記憶しているに過ぎなかった。

俳優名もおぼろげだったため、顔と名前が一致しないまましばらく期間が過ぎた。

それから、あの銀魂である。

沖田総悟扮する吉沢亮を見て初めて「あ、あのヒデノリの人!? …か…?」と、そこで初めて一致したのだ。

それからである、吉沢亮という俳優をひとつの個体としてしっかり認識するようになったのは。

なによりあの顔面である。

そりゃあもちろん、私も随分楽しませていただいた。

国宝である。国宝でしかない。国宝に違いない。いや、国宝っしょ。

そう、国宝なのだ。

だがしかし、彼の顔面を神棚に献上しつつも、私はやはり彼の演技について言及したい。

演技の「自然さと不自然さ」の使い分け

メディアでは「歩くイケメン彫刻」だの「平成のアランドロン」「顔面彫刻の森美術館」だのと比喩されて久しい。

確かに顔面のインパクトが強いので、そちらにフォーカスされてしまうのは仕方のないことだろう。

しかし彼の真骨頂は演技であり、さらに突き詰めると「気持ちの悪い役どころ」にこそあるのだと思っている。

※「気持ちの悪い役」に補足を入れると、エネルギーを外へ外へ発散するような役どころではなく、逆に内へ内へ押し込むような、ちょっと息苦しくなるような役柄のことである。

例を挙げると、『ぼくは麻里の中』の小森功、ベルリン国際映画祭でも高い評価を受けた『リバーズ・エッジ』の山田一郎。

舞台 『百鬼オペラ 羅生門』での彼も、満島ひかりや柄本佑らに引けを取らないほどの存在感と悲哀を、彼の演技からしっかり感じ取ることができた。本当に行けてよかったと思う。

この3役に共通していることは、よくわからないモヤモヤした黒い物体を、じっと内に秘めているところだと思う。

そういう、言語化できない空気を、演技というフィルターに通して表現することが、本当にうまいと思うのだ。

もちろん彼の演技の一端には、あの高貴な顔面も大きく影響していることは確かである。

しかしそれに負けず劣らず、その高度な演技力にも定評があることを忘れてはいけない。

話は戻るが「気持ち悪い役が良い」とは言ったものの、それだけではなく彼の演技の振り幅は広いと思う

自然な演技がうまい一方で、コメディ映画『斉木楠雄のΨ難』の海藤瞬のような、イタイ中二病の“不自然の塊”のような役柄もすこぶる可笑しくこなしていた。

「ワザとらしさ」を誇張すればするほど、作品の中で生きている「そのキャラクターの自然さ」は比例して際立つという、面白い現象が起きる

吉沢亮の持つ演技の振り幅。そして「自然さ」と「不自然さ」の使い分け。

これは抜群にうまいと思うのだ。

とまあ、怒涛の殴り書きのようになってしまったが、つまり彼の演技には作品ごとに楽しめるし、惑わされる。

吉沢亮に関しては、書きたいことが多過ぎてなかなか一本にまとめきれないが、ひとつだけ言えるのは、私はこれからも「彼の演技に惑わされたい」ということだけは確かなようだ。

あとがき

TwitterやInstagramを覗くと、“本気の好き”に転ぶ若いファンがたくさんいる。

気持ちはよく分かる

思えば中学時代、大好きだったGLAYのJIROが川本真琴と付き合っているかもしれないという噂が出た時に、手元にあった彼女の8cmシングル『愛の才能』を

「無いNOォォォォォォォォオオオ!!」

と柔らかな布団に投げつけた記憶が鮮明に残っている。

だから恋してしまう気持ちはとても分かる。

私もかつてはその道を通ったクチだ。

だが、私にとっての吉沢亮はもはやそういうレベルではないのだ。

以前実姉に吉沢亮のことを話した時に、それまで彼のことを知らなかった姉がwikiを開き、開口一番

「ええ〜っ 9つも年下じゃぁぁあん!」

と言い放った。

…待て。オイ待て、待て姉よ。

私はJIROの悲劇を追うつもりはないし、「彼とどうこうなれるかも」というわけのわからない精神状態でもない。

ただ『演者としての彼』に気持ちを持っていかれているだけなのだ。

惚れた腫れたの話では、もはやないのだ

それでは今から、敢えてちょっとだけ気持ち悪いことを言う。

引くなよ? 引くなよ?

私は、できれば吉沢亮とは「親族」のポジションに落ち着きたいと思っている。

私自身が3人兄妹の末っ子なので、そうだな…できれば私が姉で、吉沢亮がちょっと年の離れた弟、という感じがベストだろう。

おいマジか、頭大丈夫か。

…お判りいただけただろうか。私が今「惚れた腫れた」よりもヤバいフェーズにいるということが。

まあ、半分冗談である。

という感じで今回は締めさせていただきたい。

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