そうして 点と点は線となり、延々と広がり続けるのだ


『学ぶ』という技術を身につけるきっかけを敢えて挙げるならば、わたしにとってはきっと『英語』が出発地点だったと思う。

※本当は二大巨頭として、もうひとつに「仕事」があるのだが。

仕事から得たものは計り知れない。が、まあ今回はざっくりと『学び』という観点から想像のつきやすい『英語』のみにフォーカスすることにする。

そして、前もって言っておきたいが、勉強ではなく『学び』である。ここはひとつ。
英語を自分なりに学び始めてから、それまで完全なる右脳人間だったわたしに少なからずの変化が見られるようになった。
興味をもったものに対しては、芋づる形式で疑問が湧いてくる。
英語を知りたい、だから歴史を知ることになる。

特定の地域の歴史を学んでいく先には、いつの間にか世界史にまで広がっている。

世界史を学ぶということは地理、政治、経済、そして宗教をも学ぶことになる。

そこから派生して哲学、物理、芸術… 延々と続くのだ。

(もっとも、わたしは簡単に興味を持ちやすいタイプであるため、たまにtoo muchな時もある。だから良くも悪くも、…いや悪くも、浅く広い知識になってしまう)

疑問が次の疑問へと繋がってゆくこの興奮を、もっと若い時代から得ることができていたとしたらどうだっただろうか。

なんて考えても後の祭りなので、今はただただ自分なりに謎と疑問を紐解いていくだけなのだろう。
本質をつかめないまま『勉強させられていた』学生時代。
無論、元からできていた人は「何をいまさら?」と思うかもしれない。

わたしが当時通った地元の中学はお世辞にも勉強を楽しむ、ような環境になかったように思う。
「勉強なんて頑張っちゃってかっこ悪い」
的な。まさにそれ。

先日友人が言っていた。
「子どもの教育にはやっぱり気をつけたいから、ちゃんとした学校に入れてあげたい。」
そしてわたしはこう言った。
「でも結局自分次第じゃない?興味を持てばできるし、興味を持てなければできない。」
基本的にはそうだという気持ちは少しも変わってはいないが、みんながみんな自分で「掴み取る」ことのできる人間ばかりではないだろう。
だから『教え導く人』が必要なのだと思った。
今だと、友人の言っていることがよくわかる。

潜在的なものを現実のものに引っ張りあげるための役割を担う人間(大人)が、周りに一人でもいたのなら、わたしのように大きくなって『学生時代に食わず嫌いで興味を持つきっかけさえ避けてしまっていた教科をしっかり学びたい』と思う大人もまただいぶ減るだろう。

もっとも、好きだった教科についても実はちゃんとやってなかったのだ、といまさら悔やむ。

ああ、学びたい。

できることならば、寝食を忘れて没頭したい。

(できれば仕事とお金の心配も忘れてしまいたい ※心の声)

やはり、教育の在り方をちゃんと考えなければいけない。

知ろうと思えばいくらでも知ることのできるこの時代に、知る努力をしないでのうのうと生活できることの“無知”ほど、罪なことはない。

と日本の端っこで一人グッと闘志を燃やしている週明けのわたし。

ああ、そんなんクソどうでもいいからはよ洗濯物干しやがれ。という声が聞こえてくる…

本日、晴天なり。

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