隙のない綺麗な英語よりも、一見中身の無いような内容でダラダラ笑い合いたいだけなのだ


例えば字幕無しで英語で映画を見る。聞き取れるし普通に理解もできる。

だが、わかった気になっているだけで、その裏に隠された本当の面白さとか歴史までも知ることは非常に難しい。

ここで悩んでいる人はたくさんいるのではないだろうか。

日本人同士であっても、いわゆる『こっちのタイプの人』は『こういう感じのネタ』とか『言い回し』を非常に好むし、笑うし喜ぶ。

だが、『あっちのタイプの人』は、生物学上同じ”人間”というだけで、これらの思考と嗜好が全く相いれないこともまた、しばしば発生するのだ。

同じ日本語ネイティブ同士でも、このようなことは日常茶飯事。

英語となると、その上に言葉そのものの壁も、もれなくついてまわる。

意外に、何かを説明したり、物事の一部始終や、何かに乗っ取ったストーリーを伝えるのは簡単だと思う。

が、同じ話をしていても、人によっては面白い話になったりならなかったり。

その話の中に『自分の人間性を盛り込めるかどうか』がポイントだと思う。

 

先日、1987年製作のイギリス映画『ウィズネイルと僕』(Withnail and I)、これを観たときに、改めてそう思った。

一回目は字幕無しで、二回目は日本語字幕付きで見た。

おそらく字幕無しでも英語字幕で観たとしても、表面上の理解は問題無くできていたと思う。

ただ、英語を英語のままで聞いて、その上”そういう”英語の性格をわかった上で、この映画を理解できていたならば、わたしのこの映画に対する評価はもっと”グッと”上がっていただろう。

英語字幕だろうが日本語字幕だろうが、または字幕無しだろうが、そこに『ネイティブにウケるポイント』を理解していないことには、そこに笑いを見出すことは難しいのだ。

お笑いが国境を越えづらいのはまさにそこだと思う。

唯一無二なのだ。代わりの言葉など存在しないのだ。

『その国』で『その言葉』を使って、『面白いことをする』から『面白い』のだ。

 

言葉の壁、というよりもその国の人らしい感覚を持っているか。

一発芸とかのお笑いとは違う、もっとしゃべりに特化したお笑い。

日本でいうところの漫才といったところだろうか。(もっともわたしはシニカルなジョークを好む、うむ。誰も聞いてないのだ。)

 

わたしが掴みたいのは、その『感覚に”グッとくる”笑いどころ』なのである。

はがゆいのだ。とてつもなくはがゆい。はがゆい。

語学は続けてさえいれば、ルールに乗っ取って読み・書き・聞く・話すは誰でもできるようになると 思う。

だが、わたしはやはり感覚の部分で、英語での”面白いやりとり”を望んでいるらしい。

現にわたしのこのブログの文章、日本語ネイティブ同士だろうが好き・嫌いが分かれそうなものだが、まあそこは置いておいて、日本語を母国語としていない人にとってはこの微妙〜な言い回しとかテンションとか、言葉選びとか…

そのあたりを肌で感じ取ることはかなり難しいと思う。

自分でいうのも妙な話だが。

『ありのまま』を『ありのままの意味』で理解するのは意外と誰でもできるが、その先の肌で”グッと”感じて、笑えている人がどれだけいるのだろうか

わたしはきっと、そしておそらく一生理想には追いつけないだろうが、そうやって死ぬまで英語を学び続けるのだろう。

英語を『勉強として』やる気持ちは昔に比べたらだいぶ増してきた。

が、個人的にはやはり(いろんなことはとりあえず無視して)綺麗な英語を学ぶよりも、その辺に転がってる英語のネタを肌で感じ取って、ひとしきり笑いたいだけなのだと悟った。

感覚に訴えかける話をしたいし聞きたい、そして理解もしたい。

そして、おそらくわたしは一番難しい道を選んでしまった気がする。

鼻から完璧うんぬんを望んでいたわけではないのに、これだとネイティブと同様の理解力を自ずと欲していることになってしまう。

うん、欲しているのだろう。

さっきからぐだぐだと、なんやかんや申しております。

無理っぽいけど、死ぬまでに『英語面白レベル』が2くらい上がってたらもう万々歳ということでここはひとつ。

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