知ったかぶりができるこの時代に個性なんてものは存在しない(かもしれない)


ひと昔だと、自分の知らないことを相手が話していたら「それってどういうこと?」と聞くしかなかった。

今は、電波でのやりとりが普通になり、自分の知らない言葉や物事を相手が送りつけてこようが、ネットで適当に検索すれば『それが何なのか』概要くらいはバカでも分かるようになった。

膨大な情報を私たちは世界基準のいわば”クラウド”というものでシェアしている。

画一的な情報を、いとも簡単にシェアできるこのご時世。

自分の知識に無いものを、ネットという脳みその外付けハードディスクに頼りまくっている。

『知らないこと』や『考えたこともないこと』を検索することで、あたかも自分が最初から持ち合わせている知識や概念として振舞うことができる。
一握りだった『特定の分野における知識人』といわれていた人たちにも勝る形で、現代のわたしたちはあらゆる分野の知識に触れて、自分のもの”っぽく”できてしまう。

改めてすごい時代だ、と思った。

そして「こわっ!」とも思った。

こうなってくると、知識の面だけではなく、考え方(=思想)といった部分でもかなりのボリュームでシェアしてしまっているのではないか。

自分自身で考えてもいないことを、ペラっと誰かにえらそうに話してしまってはいないだろうか。

(そういう意味での)知識や思想は増えるだろうが、なんさ情報過多。

物事の本質ではなく上っ面だけでいろんなことを判断してはいないだろうか。

話の方向がおかしくなってきたが、つまり”共通認識”が増えれば増えるほど、個々人の特色というものもまた、薄れていく感じがするのだ。

いろんな人が「私ってこんな人間、僕ってこんな人間」と、”自分とはなんぞや”というものを模索している一方で、ほとんどの人間が画一的な情報と考えを知らず知らずにシェアしているありさまが滑稽に見えてきた

自分なんてものは、意外と“無”だったりする。そう思う。

なんてことをふつらふつらと考えていたら、ちょうど般若心経の世界観に通じるものがあって、脳内がスパークした記憶がある。

…ロックだ。

最近頻繁に、”Pray for paris”という文字とトリコロールカラーをSNSで目にする。

わたしの懐に多少なりの違和感はあるのだが、別にそれ自体には是とも非とも思わない。

根が深い問題が故に、前述通り浅はかな薄っぺらい知識で色々言えた義理ではないが。しかし、仏教という哲学が世界に広まれば、きっと戦争は無くなると思う。

無くならないにしても、もっと優しい世界になると思う。

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